その日、澪は学校を終えた足で、また公園へ向かっていた。
カバンの中には、神谷に預けたノートPCとは別に、自分が普段使っているUbuntu搭載の軽量ノートが入っている。神谷と一緒にログを解析したあの一件が、頭から離れなかった。
「VALHALLA……それがあの関数の名前……」
澪の中で、その名前がずっと引っかかっていた。OSやシステム設計の授業でも聞いたことがない。ネットで検索しても、出てくるのは神話の話ばかり。
でも、ログにあったのは明らかに現代的なシステム構成だった。
神谷が語った「NULL領域の設計図」という言葉も、ただの比喩ではない気がする。
ベンチにはすでに神谷がいた。
ジャンクのシングルボードコンピュータと、外付けSSDをケーブルで繋ぎながら、静かに画面を見つめている。
「来たか」
「昨日のあれ、少し調べてみました。VALHALLA::core/secureboot/init
って、普通のブートローダーにある構文じゃないですよね?」
神谷は頷いた。
「あれは、旧J-SOC系列が使ってたセキュリティ用のフレームワークのコードだ。おそらく、特殊環境下の政府系プロジェクトでのみ動いていた設計思想……。外には出回らないはずだった」
「じゃあ、やっぱりヤバいってことですよね」
「“何がヤバいかを説明できないほどヤバい”んだよ」
神谷は皮肉交じりに笑って、澪に端末を見せた。そこには、昨日のログのダンプがあり、ある一点でスタックトレースが途切れていた。
[ERROR] stack trace interrupted at 0x403c
[WARN] incomplete return pointer to thread origin
[LOG] instruction pointer: 0x0000(null)
「おかしいですよね。NULLポインタで終了してる……」
「だろ? だがな、これはエラーじゃない。“正常終了したように見せかけるためのエラー”だ。巧妙に仕組まれたスタブ処理。ログ解析の素人を騙すには十分だが、本当に危ない連中はこれを使って“足跡を消す”」
澪はゾクリとした。
つまり、誰かがこのPCを使って、何かを実行し、その証拠を“NULLで上書き”して隠したということだ。
「スタックトレースが途切れてるのって……元に戻れないってこと?」
「いや、逆だ。**このスタックは、意図的に“辿らせない”ようにしてある。**逆に言えば——辿れば、元の開発者に繋がる可能性がある」
神谷は、古いUSBメモリを取り出した。
「これには、俺がVALHALLAに関わっていたときの、当時の開発ログが入ってる。…見せるつもりはなかったが、お前には少しずつ見せてもいいかもしれん」
澪は、息を飲んだ。
神谷の過去。神谷が“魔術師”と呼ばれた所以。
その本質が、そこにはあるのかもしれない。
「……あの、教えてもらえますか?ログの見方とか、開発手法とか……」
神谷は澪をじっと見た。
公園の照明が弱くなり始める中、沈黙が二人の間に流れる。
「人に教えるのは久しぶりだ……。だが——“スタックの途切れ”を見抜いたお前なら、やれるかもしれん」
澪の胸に、小さな火が灯った。
——スタックとは、過去の積み重ねだ。
それを遡り、理解し、再構築することで、次の関数を呼び出す。
神谷のように、彼女もまた、自分なりの“次の一手”を模索し始めていた。
神谷は静かにノートPCの電源を落とし、空になった缶コーヒーをベンチの下に転がした。
目の前には、夜の公園が広がっている。ただ静かで、無防備なほどに穏やかな光景。
(それでも、ログは動いている——)
遠く、街のネットワークのどこかで、何かが微かに軋んでいた。
その軋みの音は、ある高校のネットワーク内でも小さく反響し始めていた。
まだ誰も、それに気づいてはいない。
だが、一人の少女だけは、ほんのかすかな“違和感”を感じ取ろうとしていた——。
——その違和感は、単なる余韻かもしれなかった。だが翌朝、何気ない教室の空気に、澪はごくわずかな“歪み”を感じ取ることになる。
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