第四章:NULLの中の設計図

神谷がVALHALLAの名を見たあの夜から、一日が経った。

冬の公園は夕方でも身を切るような寒さだったが、澪は震えもせず、ベンチの隣に腰を下ろしていた。
神谷の手元には、澪が持ってきたノートPC。今日も、その画面には白く長いログが流れている。

「この中身って……どこまで調べられそうですか?」

澪がそっと問いかけると、神谷は肩を揺らした。

「正直なところ、構造が歪すぎて手が出しづらい。まともなパーサーじゃ読み取れない断片だらけだ。だが——その“異常”が、逆に意味を持ってる気がする」

神谷の目は、まるで暗闇の中から星座を探すようにログの断片を読み解いていた。
VALHALLA。それは、正規の設計図にない“NULL領域”——つまり仕様書にもコードベースにも記載されない空白部分にこそ、本質が埋め込まれているという、異端のアーキテクチャだった。

「……このプロジェクトは、そういう思想で作られてた。見えるコードだけじゃなく、“書かれていない部分”をどう読み解くかが肝だった」

「NULLの中に、設計図があるってことですか?」

「そうだ。しかも、普通の方法じゃ見えない。見落とされるように、最初から“隠してある”」

神谷は言葉を切り、PCを再起動した。
すると、起動ログの中に一瞬だけ、黒い背景に浮かぶように文字が走る。

[trap-flag] EXEC /boot/val/nullref.cfg [NOTE] instruction set mismatch detected [SYS] shadow trace logging... enabled.

澪が息をのむ。神谷は即座にターミナルを切り替え、ハードウェアログにアクセスした。
表示されたのは、ファイル構造でもコードでもない。電圧のばらつき、クロックタイミングの乱れ、キャッシュメモリの挙動といった、通常は無視されるようなハードウェア寄りのログの集合だった。

「見ろ。これだ。設計意図そのものが、“コードではなく動作の癖”に刻まれてる」

「まるで、コードに脈拍があるみたい……」

澪が呟くと、神谷は小さく笑った。

「VALHALLAは、**『システムに意志を与える』**ことを本気で狙ったプロジェクトだった。つまり、バグも設計の一部として扱っていた。NULL領域に、開発者の“本音”を潜ませる。それがこのプロジェクトの流儀だった」

澪の目が光を帯びる。まるで禁断の知識を覗き見てしまったような感覚。
普通の教育では決して学べない領域。正解のない、思想だけが支配する世界。
澪の心にあった“エンジニア像”が、少しずつ書き換わっていく。

「ねえ、神谷さん。このVALHALLAって……完成してたんですか?」

その問いに、神谷はしばし沈黙した後、静かに答えた。

「俺たちは、完成“させてしまった”んだよ。……そして、封印した。理由は——」

言いかけたそのとき、画面が突如ブラックアウトする。

「……!」

澪が息を呑む。神谷はすぐに電源を落とし、PCの裏蓋を外す。

「……まだどこかに“繋がって”やがる」

「え?」

「今の動き……リモートからの干渉があった。たぶん、VALHALLAの“残骸”を追ってる連中が、この端末に気づいた」

澪の背筋に冷たいものが走る。
神谷の口調は冷静だったが、その手は確実に素早く、迷いがなかった。

「もうこの端末は使えない。だが、見たろ。設計図は——“NULLの中”にある」

澪は強くうなずいた。その意味が、まだ完全に理解できているわけではない。
だが彼女の心には、何かを確かに“受け取った”という実感だけがあった。

——そして彼女はまだ知らなかった。
神谷が封印したあの計画が、いま世界の裏側で再起動しようとしていることを。


——そして、その“システム”は、澪の存在に反応し始めていた。
次章:スタックトレースに揺れる意志

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