第二章:叩き付けられたデバッグログ

公園の薄暗い街灯が、夜の底をわずかに照らし出していた。その下で、一人の男と少女が向かい合う。
男の名は神谷 創(かみや そう)——かつて“コードの魔術師”として名を馳せた伝説のプログラマー。
少女の名は白石 澪(しらいし みお)——高校二年生にして、ITの世界に強い興味を持つ、好奇心旺盛な女子高生だ。

「このコード……すごく複雑そうに見えるのに、動作は軽いし、全体が無駄なく連携してるように感じます。いったい、どうやって書いてるんですか?」

そう問いかけた澪の声には、純粋な驚きと尊敬が入り混じっていた。先ほど彼女が目撃した神谷のプログラムは、ほんの短い時間で複数の複雑な処理を並行して実行し、しかもエラーを起こすことなく動作し続けていたのだ。普通ならバグが出るはずの部分を、まるで魔法のように回避している。そこにあるのは、きわめて合理的かつ流れるようなコードの美しさ。

神谷はベンチに腰掛けたまま、澪に目を向ける。視線はまるで、エディタ上のエラーを見つけるかのように鋭く、しかしどこか憂いを帯びていた。
「大したことはしてない。ただ、動かす前に“どんな失敗が起きるか”を想定して準備するだけだ」
「どんな失敗……ですか?」
「そうだ。たとえばネットワークが切断されたらどう動作するか、入力が想定外のフォーマットだったらどう処理をするか……。予測できる限りのバグの芽を先に潰しておけば、急に異常事態が起きても落ちることは少ない」

そう言うと、神谷は自分の膝上のノートパソコンを軽く叩く。そこにはずらりと並んだログウィンドウが立ち上がっており、複数の行が瞬く間に流れていた。エラーが起きると想定した場合の挙動を、プログラムの内部で逐一チェックしているようだ。
「このデバッグログの内容を見ろ。ここには、通信状態やメモリの使用状況、ユーザーがどんな操作をしたかなど、あらゆる情報が書き込まれる。どんな些細なことでも、後で問題が起きたときに原因を特定できるようにしているんだ」

澪は画面に目をやり、驚愕する。スクロールしても途切れない膨大なログが、一定の間隔でルールに沿って整理されている。一見ごちゃごちゃしたデータの塊に見えるが、神谷にとっては宝の山のようで、必要な行を素早く探し出しては確認している。
「これだけの情報をリアルタイムで取得しながら、しかもプログラムは落ちないなんて……ほんとに魔法みたいですね」
「魔法なんかじゃない。単なる経験と勘、それと……ほんの少しの情熱だよ」

神谷の言葉は淡々としていたが、その瞳の奥にはどこか誇らしげな色が浮かんでいた。かつて業界をリードしてきた天才プログラマー。彼が積み重ねてきた無数の夜と失敗、そして成功の記憶。そのすべてが、この隙のないコード設計に反映されているのだ。
澪は思わず胸を熱くした。こうして具体的な手法を目の当たりにし、それをさらりとやってのける姿はまさに“コードの魔術師”にふさわしい。

「ねえ、神谷さん。どうしてこんな公園で暮らしてるんですか?」

澪は勇気を振り絞って質問する。どんな輝かしい経歴を持っていたかは分からないが、今はホームレス同然の生活。そこにはきっと、人には言えない事情があるに違いない。だが、神谷は視線を落としたまま答えなかった。微かに苦い笑みを浮かべ、沈黙が落ちる。
「……まあ、いろいろあってな。少しの間、ここに身を置いているだけさ」

それきり、神谷は何も語ろうとはしなかった。澪はそれ以上は踏み込めず、少しばかり気まずい空気が流れる。しかし、彼女の中には“もっとこの人の技術を知りたい、学びたい”という純粋な思いが芽生えていた。その思いが、彼女をある行動へと駆り立てる。

「もしよかったら、私にプログラミングを教えてくれませんか? 私、将来はITの世界で働きたいと思っていて……。でも、何からどう学べばいいのか分からなくて」

澪の声は少し震えていた。しかし、神谷の瞳がわずかに動くのを見逃さなかった。
「教える……ね。俺はもう過去の人間だ。何を教えられるか分からないが、それでもいいなら……」
「お願いします!」

彼女の言葉には、夜の闇を切り裂くような力強さがあった。神谷はその勢いに押されるように、静かに頷く。

やがて、遠くのビルの上から朝焼けが顔を覗かせる頃、澪は公園を後にした。ノートパソコンをベンチに置き、コードの整理を続ける神谷の姿を振り返りながら、心の中で固く誓う。
——この人から、本物の“コード”を学びたい。

澪は感じていた。神谷のプログラムはただ動くだけではない。“システムが生きている”という感覚を呼び覚ます。不具合や障害を起こしてこそ成長し、対策を積み重ねながら成熟していく。その姿は、まるで人間が試行錯誤を繰り返して生き方を確立していくかのよう。
「私も、あんなふうに生き生きとコードを書いてみたい」

思わず胸が高鳴る自分に、澪ははっと気づいた。まるで初恋にも似た、未知なる世界へのときめき——それが“プログラミング”へのさらなる興味と情熱を呼び覚ましていた。

一方、神谷もまた、澪の純粋な瞳を思い出していた。長い間、過去の栄光と挫折を繰り返し噛み締めながら、自らを閉ざしてきた。だが、彼女の情熱に触れ、胸の奥底でうずいていた“何か”が再び息を吹き返していることを感じる。
「ちっぽけなプライドや怠惰に埋もれている場合じゃ、ないか……」

神谷は夕闇から夜明けへ移りゆく空を見上げ、薄紅色の雲を見つめながら呟く。
かつての伝説は遠い過去となり、今はホームレス同然の生活。しかし、まだ指は動き、頭は回る。

コードの魔術師は、再び目を覚まそうとしていた。


——だが、澪の持ち込んだ一台の古いノートPCが、神谷の過去を再び呼び覚ますことになる。
次章:崩れかけた関数

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