翌日。夕刻の空が淡い群青に染まりかけた頃。
白石澪は前日と同じ公園に、前日と同じような足取りでやって来た。
手には、母から譲り受けた古いノートパソコン。そのOSは何年も前に開発終了となったはずの、謎のUNIX系派生。澪はそれを、神谷 創に見せたかった。
「——いた」
神谷は、昨日と同じベンチに座っていた。
だが今日の彼は、なにかを“修理している”最中だった。
ジャンク部品を組み合わせた小型の基板。その脇には、紙のメモと、ボールペンのキャップの先端で書かれたような極小文字。
「昨日の子か」
神谷は、澪の足音だけで誰かを判別したようだった。顔も見ずに言う。だがその指は止まらない。はんだごての熱が、寒風の中でかすかに揺れていた。
澪は声をかけた。「あの……これ、見てもらえませんか?」
差し出されたのは、薄いラベルが黄ばんだノートPC。
明らかに時代遅れの筐体。OSは起動すら不安定だったが、澪はこのマシンに奇妙な違和感を覚えていた。起動時に必ず走る謎のスクリプト。意味不明なポート番号へのアクセス。ログイン後、即座にメモリダンプが走る仕様——誰が、何の目的で仕込んだのか分からない“何か”が動いていた。
「起動したら、毎回、変なコマンドが流れるんです。…でも、削除できなくて」
神谷は無言でそのPCを受け取り、古びたキーボードに指を置く。
起動ログが流れ、澪が言った通り、見慣れない起動プロセスが立ち上がる。
だが、次の瞬間——
神谷の表情が、わずかに凍りついた。
「……これは……まさか……」
澪はその異変に気づき、神谷の視線を追う。そこには一行のログが浮かんでいた。
Executing legacy_function 'VALHALLA::core/secureboot/init'...
神谷は固唾を飲み、キーボードから手を離した。
そのファイル名は、彼が20年前に関わったある極秘プロジェクトの中でしか存在しないはずの関数名だった。
VALHALLA。
その名を、今の業界で知る者は少ない。
だがそれはかつて——国家規模の全情報基盤を“再設計”しようとした、幻のプロジェクト。
神谷が表舞台から消える直前に手がけた、忌まわしくも美しいコードの塊だった。
「おい、これ……どこで手に入れた?」
「母が、昔どこかでもらったって。あまり使わずにしまってあったものです」
神谷は、無意識に額を押さえた。
頭の奥に、封じ込めたはずの記憶がざわめく。自分が書いたはずのコード。しかし、あのプロジェクトの最終版は——破棄されたはずだった。
「これは……危ないかもしれん」
「えっ?」
「この中身を迂闊にネットに繋いだり、外部ドライブと共有したら……誰かに“見つかる”可能性がある」
「誰かって……?」
神谷はそれには答えず、PCの端末を閉じた。
その手は、かすかに震えていた。
澪はそれを見て、ただのジャンクPCではないと悟った。
「私……持って来ない方が良かったですか?」
神谷は首を横に振る。
「いや。今となっては……むしろ、運命なのかもな」
空はすでに、夜の色へと完全に染まりきっていた。
公園の街灯が再び灯り、風が冬の匂いを運んでくる。
神谷は、澪に静かに告げた。
「今夜は、もう遅い。だが……そのPCの解析、明日から一緒にやるか?」
澪の心が跳ね上がる。
目の前の謎。技術と過去と、そしてまだ知らぬ“神谷創”という人間の全てに触れられるチャンス——
「……はい!」
彼女は力強くうなずいた。
神谷の目の奥には、再び静かな光が宿っていた。
VALHALLA——それは封印された魔術の設計図。
そしていま、崩れかけた関数が再びその輪郭を描こうとしていた。
——だが、それはまだ序章に過ぎなかった。
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