第一章:失われた魔術師

東京の夜は、どこか近未来の廃墟を思わせる静けさに包まれていた。街の喧騒が途切れる路地裏の先、小さな公園の外灯が、霧ににじんで淡く灯る。ネオンは遠く、残照のようにぼんやりと空に滲み、現実から切り離されたような不思議な静寂がそこにはあった。ベンチに座る一人の男が、冷たい風に身を震わせながらも、どこか凛とした佇まいを見せていた。彼の名は——神谷 創(かみや・そう)。かつて“コードの魔術師”と呼ばれ、世界中のエンジニアがその存在に一目を置いた天才プログラマー。今は、その輝きを失ったかのようなホームレスとして、ただ一人、過去の栄光と再生への情熱を胸に秘めながら生きている。

神谷は、朽ちかけたノートパソコンをそっと膝に乗せ、薄明かりの中でキーボードに指を走らせる。彼の指先から紡ぎ出されるコードは、かつて誰もが夢中になったあの魔法のようなアルゴリズム。その一行一行は、熟練の技術と情熱が凝縮された芸術作品であり、見る者に「もっと知りたい、もっとできる」と語りかけるかのようだった。彼の瞳は、過ぎ去った日々の栄光と、これから待ち受ける未知の未来への希望で、密やかに輝いていた。

その夜、神谷が生み出すコードは、偶然にも公園の隅で静かに過ごしていた一人の女子高生、白石 澪(しらいし みお)の目に留まる。澪は、高校2年生ながらも、好奇心旺盛なIT少女。学校の課題に追われながらも、最新の技術トレンドや、プログラミングの奥深い世界に心を奪われていた。澪がふと神谷の画面に映る複雑なコードと、それを操る手さばきに目を奪われた瞬間、彼女の心に小さな衝撃が走る。「この人…一体何者なの?」と、澪は思わず息をのんだ。

神谷は、国家レベルのインフラ開発から、未知の暗号理論の実装、人工知能の基礎言語設計に至るまで、幾多のプロジェクトを影で支え、時には自ら設計思想そのものを塗り替えてきた。彼が開発したシステムは、まるで生き物のように柔軟で、たとえ最も困難なエラーや脆弱性に直面しても、驚異的な速度で最適な解決策を導き出した。業界内では、「魔術師のコード」と呼ばれ、異質な尊敬を集めていた。だが、何故、あの輝かしい才能を持ちながら、今、路上でひっそりと暮らすに至ったのか――それは、誰にも知られることのなかった壮絶な過去と、己のプライドに翻弄された選択の結果であった。

澪は、神谷の存在にただただ魅せられ、彼の孤高の姿勢に、かつて感じた挫折や迷いを重ね合わせるように、心を震わせた。彼女自身も、日々の学びの中で「どうすれば本当に人の役に立つエンジニアになれるのか」と模索しており、神谷の姿は、理想と現実の狭間で彷徨う自分への鏡のように映ったのだ。澪の心には、「私もいつか、コードで世界を変えたい」という、熱く、そして確固たる夢が宿っていた。

ふと、神谷は澪の視線に気づく。風が冷たさを増し、澪のマフラーがわずかに揺れた。神谷は、その気配に気づいたように、ふと顔を上げる。そして——静かに、しかし確かに、二人の視線が交差した。

言葉はなかった。だが、そこには確かな“共振”があった。まるで、コードの奥深くでこっそり繋がるフックのように、二人の間に見えない接点が生まれた瞬間だった。

「まだ、終わっちゃいないさ」

そうして、全く違う世界を生きていたはずの二人が、この夜を境に、同じ“コード”という名の道を歩み始めることになる。それが、世界の底から始まる、再生と覚醒の物語の、ほんの序章だった。


——そして神谷が見せる“魔術”の本質に、澪はさらに心を奪われていく。
次章:叩き付けられたデバッグログ

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